天皇は日本の象徴である、ということを初めて理解できたような気がする

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

言わずと知れた、日本国憲法第1条です。
この条文によると、主権の存する日本国民の総意がなければ天皇は象徴としての地位を当然に失うことになります。一方、この憲法が作られた1945〜1946年当時も、そして現在も、一定の人数の日本国民が天皇制は要らないと考えています。すると、日本国憲法第1条に基づいて、天皇制の廃止は速やかに話し合われなければならないことになります。


それはさておき、ぼくは子どもの頃(たぶん高校生ぐらいの頃)から、この「象徴」って何だよと疑問に思っていました。テレビなどで見る天皇が日本を象徴しているとは思えません。むしろ、ぼくたちが生きているフィールドとは隔絶された別世界に生きる人たちのような気がしていました。


ところが、今日、分かったのです。正確には天皇ではありませんが。
愛子さま、登校できずと宮内庁発表

 皇太子ご夫妻の長女で学習院初等科2年の愛子さま(8)が登校時に腹痛や強い不安感を訴え、今週ほとんど登校できなかったと、宮内庁野村一成東宮大夫が5日の定例会見で発表した。

 それによると、愛子さまは風邪による休み明けの1日、腹痛や不安感を訴えて学校を欠席。2日はご夫妻に促されて遅れて登校したものの早退し、3日から5日までは欠席した。「登校したい」という意欲はあるものの、登校には強い不安感があるという。

 お世話係の職員が同級生の父母7、8人に直接問い合わせるなどした結果、「同じ2年の違うクラスの複数の男の子が、愛子さまを含む他の児童に乱暴なことをしていることがわかった」と述べた。

娘が不登校になっている(もしくはなりそうな)のです。親としては心配でしょう。話を聞いてやらないといけない。そばにいてあげないといけない。そう考えるのが一般的な親の気持ちであると思います。日本の象徴たちも例外ではないと思います。

しかし。
皇太子さま、アフリカ訪問へ出発

 皇太子さまは6日午前、ガーナ、ケニア公式訪問のため、東京・羽田空港から政府専用機で出発した。英国に立ち寄った後、7日午後(日本時間8日未明)にガーナの首都アクラに到着する。皇太子さまがサハラ砂漠以南のアフリカを訪問するのは初めて。15日に帰国する。雅子さまは同行せず、お住まいの東宮御所で皇太子さまを見送った。愛子さまは玄関には姿を見せなかったが、ご一家のお世話役である東宮職によると、出発前のひとときをご家族3人で過ごして見送ったという。

あくまで仕事優先。しかも「玄関には姿を見せなかった」という厳然たる事実に対して、「出発前のひとときをご家族3人で過ごして見送ったという」と周りがいらぬフォローまでしています。
ぼくはこのニュースを見て、ああ、これは日本の象徴だなあ、と心の底から思いました。

じゃあ僕らは全員死刑ですね。

 死刑の是非は三つの選択肢を示して尋ねた。「場合によっては死刑もやむを得ない」を選んだ容認派は85.6%で、2004年の前回調査から4.2ポイント増。「どんな場合でも死刑は廃止すべきだ」とした廃止派は5.7%で0.3ポイント減だった。「わからない・一概に言えない」は8.6%で3.9ポイント減だった。

死刑「やむを得ない」過去最高の85.6% 内閣府調査

きったねぇ世論調査だな、という感じ。例えば「ベネッセが食育について調査しました!」だったら、ある程度偏った選択肢が提示されてもしょうがないと思うけど、内閣府がこんなあからさまな世論誘導しちゃマズイでしょ。
誘導であることが分かりやすいように「死刑」という単語を除くと、

  1. 場合によっては○○もやむを得ない
  2. どんな場合でも○○はやめるべき

ほら。ほとんど1番でしょう。


だいたい、この「場合によっては」の「場合」とはどんな「場合」なのか。それが一切示されていないので、これは現状の日本の死刑制度の是非を調査したものではなく、死刑というシステムそのものの是非を調査したものであることが分かる。ゆえに、ここから読み取っていいデータは「日本の現状の死刑制度は85.7%の人々によって支持されています」ではなく、「死刑廃止論者は5.7%います」でしかない。…いやこれでも結構ショッキングなデータだけど。


以上を踏まえて、本当に世論を調査する気があるのなら、現行の死刑制度について概説したうえで

  1. 死刑をもっと積極的に出すべき
  2. 死刑制度は現状のままでよい
  3. 死刑については今より慎重であるべき
  4. 死刑は廃止すべき

ぐらいにすべきかと。今回の調査では1〜3が「容認」、4だけ「廃止」となり、どう見てもフェアじゃない。


そして一番問題だと思うのは、こうしたいい加減な調査をもとに、「現在の日本の死刑制度は国民のみなさんに支持されています」というありもしない結論を政府が出し、現状の死刑制度に関する一切の問題を放置してしまうということだ。
たとえば 日本の死刑囚、精神障害を発症する危険 アムネスティが報告書 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
他にも、外の人との接触が極端に制約されているなど、問題の多い制度であるにもかかわらず、それが全くといっていいほど周知されず、隠されている。死刑自体は憲法も容認している*1が、このような死刑囚の処遇は法的に何ら根拠のあるものでなく、与党はすぐにでも政治日程に乗せるべきである。


現状の量刑相場によれば「2人殺せば死刑」らしい。

昨年1年間で僕らは7人の人間を殺しました。

僕らは全員死刑。やむを得ない、ですよね?

*1:31条:何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

名護(なご)市長選の夜

新顔・稲嶺氏当選「辺野古に基地造らせぬ」 名護市長選

沖縄(おきなわ)県の名護市長選挙は、既報の通り稲嶺進(いなみね すすむ)さんの当選となったようだ。まずは、安心した。もちろん、これはひとつの地方自治体の首長を決める選挙であり、それ以上の意味はないということは分かっている。しかし、名護市民の皆さんには本当に申し訳ないが、名護市から遠く離れた地に暮らす私にとっての名護市長選は、基地問題についての住民投票という意味しか持たない。


その上で。
安心した、というのは、これで日本政府は「地元の声」を免罪符にできなくなるということに対してだ。日本政府が(あるいは民主党が)昨年夏から今に至るまで結論を先延ばしにしてきたひとつの大きな理由というのが、この「地元の声」への期待であった、と私は勝手に想像している。「地元の声」を利用して、負担だけでなく判断までも押し付けることへの期待。

今回、名護市民はノーの選択をした。つまり名護市はもうプロレスをしないという意志を表明した。それに対して、基地問題に関して観客ではないが名護市長選挙に関してはあくまで観客である私としては、安心した。これからは本当の勝負である。もう観客ではいられない。

「ドキュメンタリーにおけるインタビューの編集」について

前回のエントリが思いがけず30usersもいただいてしまい、その中には少なからぬ批判があるものの、数字というのは怖いもので、なんだか嬉しくなってしまい、しばらくトップに置いておこうかなーとか思っていたら年が明けてしまいました。明けましておめでとうございます。去年仕事に追われた方、あるいは仕事を追われた方、もちろんどちらにも当てはまらない方も、今年はよい年にしたいものです。


さて本題。
とある局の放送作家の人に愚痴られた話と、テレビ番組制作者のジレンマ。
とそのブックマーク

エントリは「インタビューに対する編集」という、ある意味では永遠のテーマについて書かれたものである。僕はプロの作り手ではないので、そちらの苦労に関しては正直あまり興味がない。僕が関心を寄せるのはその反応のほう。なぜなら僕は、たぶん終生こちら側だから。
エントリの追記にも書かれているが、

・そもそも番組のテーマを決めてから材料を探すのが問題、という意見が結構あったのには驚いた。これ自体は常識だと思っていたが、意外とそうでもないんだろうか。他の作り方って可能なんかな。そもそもテーマや方向性が決まってないと企画通らない気がするんだけど。

これは完全に同意。そもそも人が何かを書いたり話したりするときは、何か伝えたいものがあるからそうするのだ。高校のころ、国語の先生が言っていた。だから文章を読むとき主題をつかもうとする読み方を知らなければいけない*1のは当然なんだ、と。文章の読み方の話はさておき、このテーゼ「人が何かを書いたり話したりするときは、何か伝えたいものがある」は、僕がブログを書くときでも、テレビの番組をつくるときでも、おそらく変わらない。製作者が言いたいことが常に先にあって、ものをつくるのはその後。「他の作り方」は絶対に不可能。製作途中いろいろ考えているうちに趣旨が変わっちゃう、みたいなことは少なくとも僕にはあるけど、そのへんは個人が趣味でやっているレベルか営利企業が集団でやっているかという別の問題だと思う。

ドキュメンタリーでなく報道ならどうか。15分のストレートニュースには製作者の意思が介在しないはず。…ではない。たぶん、あまり変わらない。今日一日、世界で、日本で、県内で、市内で、ご近所で、自宅で、数え切れないほどのたくさんの出来事があった。それらはすべてニュースソースだ。それらの中から、今日のニュースとして紹介したいものを選ぶという作業が、すでに恣意である。これは客観的には決められない。製作者は自分の気持ちではなく、視聴者が知りたがっているものを選ぶ?視聴率が取りたいから?違う。もしそうだとしても、少なくとも、製作者は視聴者が知りたがっているだろうと製作者が思うものを、やはり選んでいるのだ。

・話者とのコンセンサスをとるべき、というのは全くその通りだと思う。

率直に思ったのは、番組の趣旨をあらかじめ「インタビューを受ける人」に話しておき、その趣旨で話をしてくれ、というのが一番早い気がする。

http://b.hatena.ne.jp/orangewind/20100104#bookmark-18301485

id:orangewindさんの意見に同意。インタビュイーからすると、話した内容は尊重してくれそうな気がする(だから緊張もするし、良く見せようともするだろう)。ゆえにインタビュアーとの間には、コメントの価値に対する基本的な部分でのズレがある。そのズレをあらかじめ埋めておこうというのがこの意見であり、同意する。たぶん製作者サイドがこれをやらないのは、「生の声っぽさ」が薄くなるからだ。たとえば著名人相手のインタビューでは、ゴルフの石川遼(いしかわ・りょう)さんあたりが典型だが、インタビュイー側が空気を読む。つまりインタビュアーの求めている模範解答を感じ取り、自分の言葉として口に出す。見ている僕は、日本のプロスポーツ選手が海外で勝負したくなる原因の一端を見たような気がする。
話を戻す。
インタビュー慣れしていない一般人ではこの空気読みは難しいから、たぶん製作者は求める答えに近いコメントを発してくれる人を探して一生懸命走り回っている*2のだろうが、最初から明かしてくれれば話は早い。ただ、こうすると、インタビュイーの中には、自分の考えを殺して番組の趣旨に合わせようとする者が出てくる。すると、インタビューの「真実味」が薄れる。では、どうするか。

番組が語りたい内容がすでにあるのに、どうして外からの意見(インタビュー)を求める必要があるのか、さっぱりわからん。

http://b.hatena.ne.jp/RocRoc36/20100105#bookmark-18301485

id:RocRoc36さんに完全同意。テレビニュースを見ていると感じるが、インタビュー撮り過ぎ。大学教授出すほど学術的に高度な内容でもないのに「○○大学教授」という権威を借りないと言いたいことも言えないのか。市井の人(「世間」「世論」という権威)の感想なんか流さないで自分の感想を言えないのか。


現状のマスメディアにこれを求めるのは残念ながら無理だろう。
「ドキュメンタリーに作り手の思いを込めてはいけない」というのが社会的合意らしい現状ですから。こっちを変えるために、番組の趣旨をあらかじめ話しておく(つまり「嘘をつく」と宣言する)というのはちょっと面白い気もするが。

*1:「しなければいけない」ではない。この差は重要。

*2:インタビュイーが韓国人と知ってそそくさと次の人を探しに行ったテレビクルーの話は…「ご臨終メディア」だっただろうか。出典とかディテールとか全部失念。

江川紹子(えがわ・しょうこ)さんの「死刑制度改革私案」がひどすぎて

Egawa Shoko Journal: オウム3被告への最高裁判決と死刑制度改革私案

前段だけなら良エントリ。ジャーナリストとして、そしてひとりの人間として、足掛け20年近く、いやひょっとしたらそれ以上オウムに関わっている人だけのことはある。しかし後段の死刑制度改革私案とやらがひどすぎてブコメで収まらないのでエントリをあげる。ちなみに私は死刑廃止論者だが、だから批判するのではない。この私案がひどすぎるのだ。

 私がイメージする「死刑の執行猶予」とは、たとえばこんな感じだ。
 判決確定と同時に執行予定者リストに載せる実刑としての死刑は存続する一方で、死刑判決にも、たとえば5年間の執行猶予をつけられるようにする。執行猶予がついた死刑囚は、刑務所で服役をし、5年後に裁判官がもう一度判断する。そこで、反省や更正が明らかな場合は再度5年(とか7年とか10年とか)の執行猶予をつけることができる。

まとめると、

  • 死刑囚にはそれとは別に懲役5年が科せられる
  • 刑期満了後に「反省や更正」を判断
    • 反省してないときは執行(リスト入り)
    • 反省しているときはさらに懲役5〜10年

これを執行猶予とは言わない。死刑+懲役刑という二重刑罰を科しているだけだ。しかも、常に死刑執行をちらつかせながら。「反省や更正が明らかな」のにさらなる懲役を科す理由が全然分からない。言い換えれば、さらに反省してもらわなければならない程度の「明らかな反省や更正」とは、いったいどんな感じを想定しているのだろうか。死刑囚が刑務所ではなく拘置所にいるということさえも、ひょっとしたら知らないんじゃないか。まさかそんなはずはないと思うけど。

 このような方法であれば、常に死を身近に意識しながら、自分の犯した罪と向き合う日々を送らせることができる。

いやたぶん壊れる。あなたが吊るしたいあの人のように。

労務につかせれば、国民の税金で養われるだけではなく、彼らに少しは自分の食い扶持を稼がせることにもなる。作業をすることで得たお金は、ささやかであっても慰謝料として送金されれば、遺族の生活を少しは助けることになるかもしれない。

たしかこれは現行法でも、死刑囚が望めばできたはず。やっている人もいたはず。そしてさらに遺族がその金の受け取りを拒否している、なんて話もあったような。

ただし、「死刑でも軽い」という遺族の憤りは、この制度では和らげることはできない。

この制度によって和らげられないのは「「死刑でも軽い」という遺族の憤り」に限定されない、と言う意味で半分正解。そもそも死刑制度(というより刑罰制度全般)という、本来被害者とは関係ない制度によって被害者をお手軽に慰めようという考え方が前近代的っていうか、根本から間違っている。その完全な思い違いは、先の引用文の次の文、「遺族が事件に一区切りをつけられない」によって明らかだ。
事件に一区切りつけたいのは江川氏であって、遺族ではない。当事者でもない人間が「一区切り」などという単語を、軽々しくも当の遺族を主語にして使えるのか。


最後に取ってつけたような冤罪への言及があるが、「執行を先送りするために再審請求を行う」とピシャリ「再審の扉」をシャットアウトしておいて「再審の扉が固く閉ざされている今の状態は、早く改めてもらいたい。」とはどういうことか。


ジャーナリスト江川紹子は、やはり死んでいた。

家に誰か気に入らない奴が訪問してきたら110番しよう

葛飾ビラ配り事件、罰金5万円確定へ 最高裁が上告棄却

どう見ても弾圧です。これが弾圧でない、という説得力ある文章を読んでみたい。4名?の最高裁のかたは、どうも体の具合が悪くて善悪の判断がつかず、これ以上職務を続けられないようなので、すぐに退官のうえ療養することをお勧めいたします。法治国家の一員として。


思想云々は抜きにして形式論だけにしても、「マンションの共有部分に部外者を立ち入らせない」という権利が、侵した人を逮捕してまで守らなければいけないほどの人権である、と本気で考える人はいったいどれだけいるだろうか。マンションの共用部分で演説を始めようというなら平穏が侵害されたと主張できるかもしれない。しかし、ビラを投函しただけである。イヤなら捨てればよろしい。みんなそうしてきたでしょ?

渡り廊下などのマンションの共有部分は、基本的に断りなく誰でも入っていい場所である。そうでなければ、子どもが遊ぶ約束をするのにいちいち管理組合にお伺いを立てなければいけない。そんな面倒くさい奴の家で遊びたくない。ビラ等の投函にしても、ピザ屋でも引越し屋でも郵便局員でも新聞拡張員でもNHKの集金人でも「ものみの塔」でも創価学会でも、入れていい。お断りと書いてあったら入れないほうがいいが、それは法的なルールというほどのことではなく、あくまで紳士協定に過ぎない。だいいちビラお断りかどうかは玄関ドアまで行かなければ(つまり住居侵入しなければ)分からない。


そこでタイトルに戻る。もちろん本気でそんなことをしようという気はない。いや正直に言えば、共産党員以外の人なら誰でもいい。誰か捕まってくれないかな。そうすれば対照実験になる。最高裁の法の番人たちは、どうやってシロと言う結論を導き出すのか。はたまたクロを出すのか。興味がある。しかし…それでは捕まった人がやはりかわいそうだ。やめておこう。

しっかし経済的権利はある程度認めつつ(商業ビラは捕まらない)も政治的主張、それも反体制的なもの(と体制の側が考えるもの)だけはどんな微罪でも許さないというのは、一体どんな民主国家だよ。いつまで開発独裁なんだよ。