江川紹子(えがわ・しょうこ)さんの「死刑制度改革私案」がひどすぎて

Egawa Shoko Journal: オウム3被告への最高裁判決と死刑制度改革私案

前段だけなら良エントリ。ジャーナリストとして、そしてひとりの人間として、足掛け20年近く、いやひょっとしたらそれ以上オウムに関わっている人だけのことはある。しかし後段の死刑制度改革私案とやらがひどすぎてブコメで収まらないのでエントリをあげる。ちなみに私は死刑廃止論者だが、だから批判するのではない。この私案がひどすぎるのだ。

 私がイメージする「死刑の執行猶予」とは、たとえばこんな感じだ。
 判決確定と同時に執行予定者リストに載せる実刑としての死刑は存続する一方で、死刑判決にも、たとえば5年間の執行猶予をつけられるようにする。執行猶予がついた死刑囚は、刑務所で服役をし、5年後に裁判官がもう一度判断する。そこで、反省や更正が明らかな場合は再度5年(とか7年とか10年とか)の執行猶予をつけることができる。

まとめると、

  • 死刑囚にはそれとは別に懲役5年が科せられる
  • 刑期満了後に「反省や更正」を判断
    • 反省してないときは執行(リスト入り)
    • 反省しているときはさらに懲役5〜10年

これを執行猶予とは言わない。死刑+懲役刑という二重刑罰を科しているだけだ。しかも、常に死刑執行をちらつかせながら。「反省や更正が明らかな」のにさらなる懲役を科す理由が全然分からない。言い換えれば、さらに反省してもらわなければならない程度の「明らかな反省や更正」とは、いったいどんな感じを想定しているのだろうか。死刑囚が刑務所ではなく拘置所にいるということさえも、ひょっとしたら知らないんじゃないか。まさかそんなはずはないと思うけど。

 このような方法であれば、常に死を身近に意識しながら、自分の犯した罪と向き合う日々を送らせることができる。

いやたぶん壊れる。あなたが吊るしたいあの人のように。

労務につかせれば、国民の税金で養われるだけではなく、彼らに少しは自分の食い扶持を稼がせることにもなる。作業をすることで得たお金は、ささやかであっても慰謝料として送金されれば、遺族の生活を少しは助けることになるかもしれない。

たしかこれは現行法でも、死刑囚が望めばできたはず。やっている人もいたはず。そしてさらに遺族がその金の受け取りを拒否している、なんて話もあったような。

ただし、「死刑でも軽い」という遺族の憤りは、この制度では和らげることはできない。

この制度によって和らげられないのは「「死刑でも軽い」という遺族の憤り」に限定されない、と言う意味で半分正解。そもそも死刑制度(というより刑罰制度全般)という、本来被害者とは関係ない制度によって被害者をお手軽に慰めようという考え方が前近代的っていうか、根本から間違っている。その完全な思い違いは、先の引用文の次の文、「遺族が事件に一区切りをつけられない」によって明らかだ。
事件に一区切りつけたいのは江川氏であって、遺族ではない。当事者でもない人間が「一区切り」などという単語を、軽々しくも当の遺族を主語にして使えるのか。


最後に取ってつけたような冤罪への言及があるが、「執行を先送りするために再審請求を行う」とピシャリ「再審の扉」をシャットアウトしておいて「再審の扉が固く閉ざされている今の状態は、早く改めてもらいたい。」とはどういうことか。


ジャーナリスト江川紹子は、やはり死んでいた。