刑事被告人が法廷で着用できる「ネクタイ的なもの」と「革靴的なもの」を見て思わず失笑

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081128-033595/news/20090521-OYT1T00061.htm

 従来は、ネクタイは自殺防止の観点から着用を認められず、靴もサンダルに限定されていた。日本弁護士連合会が裁判員の予断を防ぐための対応を要望したことを受け、法務省は運用を変更。同省幹部は「保安上問題がない形状の物があったので譲歩できた」と話す。

保安上問題のない形状の物がこちらの記事の画像。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090622-OYT1T01226.htm

おいおい、これに280万も使ったの?誰か止めなかったのかよ。
靴にいたっては…私の認識ではこれを革靴とは呼べない。どう見てもサンダルである。なーにが「ズボンのすそがかかれば革靴のように見える」だよ! 記者が本心からそう思うのなら明日からそれ履いて通勤すればいい。ズボンのすそで隠せば分からない


そもそも刑事被告人の服装に関する規定はない(はず)。そりゃそうだ。被告人が何を着たって、基本的に公判には何の影響もない。それでも「これまでは拘置中の被告がジャージーなどを着て、手錠・腰縄姿で入廷する光景が一般的だった」のは、単に頭の弱い方々によってそのように「運用」されてきたに過ぎないのだ。
ネクタイは自殺防止あるいは攻撃防止のため召し上げ。ベルトも同様。靴は逃走防止のため、やはり召し上げ。あと記事でも触れられているが、刑事被告人は入廷に際して手錠、腰縄をつけられて移動する。腰縄ですよ腰縄。時代劇で見るようなアレ。いやはや日本は伝統を重んじる美しい国ですなー。いや、ジョークでも何でもなく、この国の司法制度は今だに「お上が悪人を裁く」スタイルを採っている。


それがこのたび、裁判員を混ぜることになったとしても、実は何も変わらない。陪審制度は「お上の暴走を防ぐ」のが主目的だが、この国のそれは目的が違う。国民を腐った司法の共犯者にすることで、これまで以上に何も言わせなくすることが目的である。いや、実は今までも共犯関係にあったのだけど。
だから今回の、刑事被告人の服装に関するちょっとした変化も、本当なら刑事被告人の人権の観点から議論が行われるべきところなのに、そういった話はもう全然出てこない。それどころか、素人奉行は見た目で判断してしまうだろうからという、バカ扱い前提の、誰に対する配慮なのか分からない「配慮」と、セレモニーとしてのお白州の品格とのせめぎ合いが議論の中心になってしまう。模擬裁判の結果では、確か見た目はあまり関係ないというデータが出たような報道を見た気がするが。法務省は模擬裁判を単なるキャンペーンとしてしか見ていなかったのだろうか。


最後に、私から提案したい。
裁判官は法服をやめて、検察官もスーツをやめて、上下ジャージにサンダルで公判せよ。
裁判員が予断を持たないようにする」そして「被告人の逃走や自傷他害のおそれを減らす」を両方満たす、いいアイディアだと思うが。

死刑廃止論者である私のメモ

「残虐な刑罰」

死刑が憲法36条のいう「残虐な刑罰」にあたるのかについては、1948年に最高裁判決が出ている。
全文
戦後間もないので、最高裁をしてまだこんなもんだったのだろう。まあ、最高裁判決を引くまでもなく、

憲法31条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

これを素直に読めば、憲法が死刑を想定していることは自明であるといえる。死刑が違憲であるというのは、いささか無理筋。


ただ、補足意見に注目すべき部分があったので引用する。

ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によつて定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第三十一条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。しかし、今日はまだこのような時期に達したものとはいうことができない。

60年経ちましたが、まだダメなようで…。

抑止力

ない。
ないどころか、逆に死刑が凶悪犯罪を誘発している面もある。最近だと茨城県荒川沖駅で起きた無差別殺人事件における金川被告人とか。彼は「(死刑がなければ)やらなかったでしょうね」と明確に言っている。

国際的な動向

アムネスティ
でも、基本的には関係ない。他国がどうしようと、正しいのなら続けるべき。正しいのなら。他国が軍隊を持っているからといって「普通の国」にならなければいけないわけじゃないのと同じ。
犯罪者引渡し条約については、日本がアメリカと韓国の2か国としか締結していないのは死刑があるからという指摘があるが、本当にそうなのか、それだけなのかは知らない。カナダは死刑存置国に犯罪者を引き渡さないと公式に発表しているらしいが。

刑罰権

復讐権の代行

個人の復讐権を国が代行することで復讐の連鎖を防ぐという考え方。

応報刑

復讐権とかぶる部分もあるが、やったことに対して同じだけの苦痛を与える、というもの。

一般予防

簡単に言えば「みせしめ」。こういうことをするとこういう刑罰が科されるよ、と示すことで犯罪を抑止しようとするもの。

特別予防

犯罪者に対しては教育をすることで再犯を防ごうというもの。


死刑は応報刑である。死刑に抑止力はないし、死刑囚は再犯できないので、「一般予防」「特別予防」は死刑とは相容れない。一方、その他の刑罰は基本的にこれら目的刑なので、死刑って基本的に異端。
復讐権の代行も違う。日本の刑罰制度では、被害者の復讐心は考慮されない。被害者の家族の復讐心は考慮されるようになったようだが(被害者参加制度。いわゆる死刑事案では通常、被害者本人は亡くなっている)。
日本の刑罰制度は、復讐権を否定する。つまり人に対して「どんなことがあっても人を殺してはいけない」と説く(正当防衛を除く)。それならば、それは、それを破った人に対しても適用されなければいけない。「どんなことがあっても人を殺してはいけない」に例外を作ってはいけない。そうしてはじめて、「人を殺してはいけない」に説得力が生まれるのではないか。

冤罪

冤罪は起こる。必ず。
それは見落としかもしれないし、怠慢かもしれないし、握り潰しかもしれないし、でっち上げかもしれない。冤罪を防ぐよう最大限努力すべきなのは言うまでもないが、それでも冤罪は起こる。もしあなたが、最大限努力すれば冤罪は100%防げると考えるとしたら、まさにそれが冤罪の温床なのである。


かくして冤罪は必ず起こるので、問題は冤罪が起きたときにどうリカバリするかに移る。
懲役刑だって失われた時間は返ってこないし、現行法ではいくらかのお金が支払われるだけだ(最大で12500円×日数)。でも身体は帰ってくるし、生きて名誉も回復する。次の冤罪を防ぐために証言することもできる。


殺してしまったら、もう永遠に取り戻せない。

民族として引き受ける責任なんて幻想だと言いたい

多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

これほど「逃げである」と言われてもなお「幻想だ」と私は言ってしまいたい。それは、民族というものは克服されなければならない概念であり、克服する上で、民族はアプリオリに存在しないということを指摘することには意味があると思うからだ。


民族というのは、それこそ民族によって定義も異なるのだが、だいたい、土地、言語、宗教、習慣といった共通性によって取り出されるひとまとまりの集団、と言うことができると思う。「共通性によって取り出される」というと、あたかもそれは最初から存在しているもののように感じられる。しかし実際には、数ある共通項の中から誰かがいくつかの要素を抜き出して隣との線を引く作業であることに他ならない。隣と共通していない要素を探して、「われわれ」と「かれら」とのあいだに線を引いた。そうしてできた集団が民族である。


とはいえ、線を引く作業はもうずいぶん前に行われてしまっている。だから、現在を生きる私たちにとって、民族は最初から存在している。民族に自らのアイデンティティを見出す人も存在する。それを「いやそれ幻想」と頭ごなしに否定することはできない。


その上で。
「私」が「民族」に所属すると想像するのは自由である。そして、「民族」のために「私」が動くこともまた、基本的には許されなければならない。しかし、それは往々にして暴走する。民族は、注意していないと、ひとりで動き始める。ここで思い出す必要がある。民族は共同幻想である、ということを。想像上の概念である民族が動き出すはずがない。誰かが動かしているのである。陰謀論ではない。民族を突き動かす誰か。それは他ならぬ「私」だ。


現在において民族は自明である、ということの弊害はもうひとつある。それは、民族からの自由がない、ということだ。言い換えれば、私は生まれたときから和人であり、これはもう変更できない、ということなのだ。和人であるだけで発生する「責任」など引き受けたくない。選んで和人になったわけではない。選んで特権的な地位を持ったわけではない。天皇だって選んであの家に生まれたわけではないだろうに。属性に責任なんてない。やっていないことに対する責任なんてない。そうでないとおかしい。


だから、日本において少数派が配慮されることがとても少ないことに対する私の責任は、法的・政治的な意味であれば有権者(主権者)としての責任であり、言論とかであれば表現者としての私の責任である。決して和人としてアプリオリに与えられた責任ではない。そうでないとおかしい。

「胸ぐらをつかんで壁に押し付けて怒鳴る」は体罰ではない

熊本体罰訴訟(通称がない?)の最高裁判決
全文。興味のある方はぜひ。

一応まとめ

  • 教員。3年生の担任。(報道によれば20代。)身長167cm。
  • 小学2年生。身長130cm。
  • 互いに面識はない。
  • 教員は小3をなだめていたところ、小2がじゃれてきたので、振りほどいた。
  • 小2は通りかかった小6女数人を蹴り始めた(本気ではない)ので、教員は小2に注意した。
  • 教員がその場を去ろうとすると、小2が後ろから尻を蹴って逃げた。
  • 教員怒る。小2を追い掛けて捕まえ、胸ぐらをつかんで壁に押し当て、大声で「もう、すんなよ。」と叱った。
  • 小2PTSD。親訴える。

体罰禁止規定

体罰は、学校教育法第11条によって

校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

このように禁止されているのだが、罰則規定がないだけでなく、そもそも何が体罰なのかという定義自体、何もない。それで「懲戒」と「体罰」の境界線がずっと問題となっていて、教員の皆さんは大変だろうなあと思う。こういうことはケースバイケースなので杓子定規に決められないとは思うが、いいにしても悪いにしてもある程度は決めておくべきで、これは立法の怠慢であると言わざるを得ない。これでは誰も守られない。訴追リスクのある教員も、体罰を受けるリスクのある子どもも。教員からしたら訴追を恐れて安全なほうに倒すし、たまに「そういう」信念を持つ教員が何かやらかしても「これは教育上必要な懲戒だった」と教委は居直る。

最高裁の判断

A(教員)の本件行為は,児童の身体に対する有形力の行使ではあるが,他人を蹴るという被上告人(小2)の一連の悪ふざけについて,これからはそのような悪ふざけをしないように被上告人を指導するために行われたものであり,悪ふざけの罰として被上告人に肉体的苦痛を与えるために行われたものではないことが明らかである。
Aは,自分自身も被上告人による悪ふざけの対象となったことに立腹して本件行為を行っており,本件行為にやや穏当を欠くところがなかったとはいえないとしても,本件行為は,その目的,態様,継続時間等から判断して,教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではなく,学校教育法11条ただし書にいう体罰に該当するものではないというべきである。したがって,Aのした本件行為に違法性は認められない。

※カッコ内は引用者が付け足した。

今回の最高裁判決は、体罰とは「罰として被上告人に肉体的苦痛を与えるために行われたもの」で「その目的,態様,継続時間等から判断して,教員が児童に対して行うことが許される教育的指導の範囲を逸脱するものではな」いものであると示したようだ。

私の(半分は想像に基づく)意見

行為部分を引用する。

Aは,これに立腹して被上告人を追い掛けて捕まえ,被上告人の胸元の洋服を右手でつかんで壁に押し当て,大声で「もう,すんなよ。」と叱った

これは体罰ではないと思う。正確には、体罰ですらない。体罰は罰なので、あくまで教育的指導の延長線上だ。これは懲戒と体罰の境界事例でも何でもなく、単なる暴行(もしくは傷害)じゃない?と思う。
どう見てもプチッときてやってるでしょ。この子を教育的に指導しようとか、瞬間的にはそんなこと関係なくて、カッとなってやってる。たぶん顔はものすごい近いはず(想像)。
原審は

胸元をつかむという行為は,けんか闘争の際にしばしば見られる不穏当な行為であり,…社会通念に照らし教育的指導の範囲を逸脱する

としているようで、こちらのほうが納得できる。

貧困問題は経済問題ではない

途上国が貧しいのは先進国が搾取しているからではないし、貧乏人が貧しいのも金持ちが搾取しているわけではない : 金融日記
を読んで。
世界規模の搾取構造は確かに新興国の発展を促した側面もあると思う。まあ、搾取側が言っちゃダメだろ、それは「太平洋戦争は東アジア開放の戦争だった」と同じだろ、と脊髄反射的に思ったがそれは措く。


最貧国が貧しいのは世界の貿易経済に組み込まれていないから、というのであれば、日本の貧困層が貧しいのも経済に組み込まれていないから、としなければいけない。しかし、現実はそうではない。「ネットカフェ難民」については一概に言えないが、「派遣村」については、定義からして確実に経済に組み込まれた貧困である。

ネットカフェ難民派遣村の住人が明日日本から消滅したとしてみましょう。
そうです。
実は金持ちも大企業もまったく何も困らないのです。
困らないどころか社会福祉の税負担が減って助かるぐらいなのです。

吐き気がするほどの嘘。本当にそうならば、この危機が過ぎ去っても切られた派遣労働者は採用されない。いなくても困らないし、いるとかえって困る存在だからだ。彼らは暴れるか、死ぬか。
しかし、きっと彼らはまた採用される。企業の社会的責任とか気持ちのいい御託を並べて。実際には、金持ちが金持ちであり続けるためにはそうする必要があるから、それが彼らの利益構造だからそうするだけなのだ。


派遣村の貧困は「経済に組み込まれた貧困」であることが確認できたが、現実はさらに深刻である。

経済に組み込まれていない貧困

同じように思考実験をしてみましょう。
障害者が明日日本から消滅したとしてみましょう。
そうです。
実は金持ちも大企業もまったく何も困らないのです。

困らないどころか社会福祉の税負担が減って助かるぐらいなのです。


経済に組み込まれていない人や国を経済に組み込むことによって貧困を脱する、という発想が危ないのは、経済に組み込みようもない人を排除する発想に繋がることだ。ルワンダなどの貧困と引き合いに出すならむしろこちらだ。
このように経済に組み込まれない人が得てして貧困状態に置かれているのは、一にも二にも政治が彼らを無視しているからである。世界経済の枠組みの中にいる人たちがその中だけで富を独占し、自分たちとは関係ない人は無視。そんな彼らの状態を改善する政策はあくまで「救済」である。だから最初に切られる。必要もないのに善意で施してやってるものだから、余裕がなくなってきたら最初に切られる。困ってるときはお互い様。痛みを分かち合おう。


自国のトップが一番の害悪なのだとすれば、独裁でも圧政でもない民主主義国である日本においては、有権者が一番の害悪なのだ。
日本国のトップが害悪であり続けるかどうか、それは、何人の有権者が本当に憂えるかにかかっていると思う。

「有罪率99%」コメントにレス

確定判決が出るまで拘束されたりしないって、普通 - 胡散臭さがなんかいい
に、元記事のかたからコメントをいただきました。ありがとうございます。
コメントは整形できないので、新たにエントリを起こすことにします。

逐条部分

1.なぜ「半ば自動的に延びる勾留期限」という現実をわかっていながら、「無期限に更新できるのは重大事件のとき、それも「特に継続の必要がある場合」のみ。」というような批判をしているのか?

「起訴されると、今度は確定判決が出るまで勾留されるので」と言い切っていたので、そういう規則にはなっていませんよ、ということで書きました。
もちろん専門であるid:fly-higherさんは分かっていて敢えて単純化のために断定的に書かれているのだと思いますが、誤解する読者もいる(誤解している人が多いのではと常々思っていて、この書き方ではそうした誤解を補強してしまうのでは)と思ったので書きました。

2.「半ば自動的に延びる勾留期限」のところに「裁判官による勾留請求却下は0.4%」という数値を出しているが、これは最初の検察官の勾留請求の話であって、勾留の延長の話ではない。

ごめんなさい。おっしゃるとおりです。元エントリ修正しました。

3.「起訴されてもずーっと拘束されているわけではない(普通。拘束され続ける人も中にはいる。)」←元エントリの注1参照。当然そんなことはわかった上で話を単純化しているだけです。

注1とは「ちなみにいわゆる保釈を請求できるのはこの段階になってからです。保釈される人も相当数いるので、全員が身柄拘束され続けるわけではありません」のことですね。
保釈はお願いして許されるのではなく、そもそも特に理由がなければ拘束してはいけないというのが形骸化しているけどルールだということです。

4.刑訴法60条2項には「原則2ヶ月以内に釈放しないといけない。」とは書いていない。2ヶ月勾留するということと、勾留の更新の要件が書いてあるだけ。まあ保釈請求があれば2ヶ月以内に釈放することになるんですが。だから、「2ヶ月から数年間身柄を拘束されることになります」というのは間違いとは言えない。

国家権力が強制的に人を拘束してしまっても許されるための条件として「2ヶ月勾留するということと、勾留の更新の要件が書いてある」のだから、これは「そうでなければ釈放しなければいけない」というルールであると解釈するのが正しいと考えます。現状として、請求されていないのに検察が勝手に釈放することはないのですが、それは別の問題。

また、「2ヶ月から数年間身柄を拘束される」だけなら間違いではありませんが、「確定判決が出るまで勾留される」は間違いです。
ただ、注釈で「保釈される人も相当数いるので、全員が身柄拘束され続けるわけではありません」と書かれているので、全体として間違いとは言えませんから、ここは印象論で語ってしまったかもしれません。

5.被疑者勾留の根拠条文は207条1項+60条1項です。

そうなんだと思います。

6.「誤認逮捕」という言葉の意味も、通常と少し違う意味で使っているので注を付しています。元エントリー注4参照。

「ここでいう誤認逮捕は、結果的に起訴されなかった人を逮捕したという程度の意味」とのことですが、ここでいう「誤認逮捕」が「無実の人を逮捕した」という意味ではないことは承知の上で、
「有罪率99%」の理由が「検察官がほぼ確実に有罪になる被疑者しか起訴していないから」、それは警察の誤認逮捕から被疑者を早期に救っているのだ、という論旨はおかしいと思ったので、書きました。

ここで「誤認逮捕」の私の読みですが、「誤認」という語感から「結果的に起訴されなかった」は嫌疑不十分で不起訴になったという意味だと思いました。勝手読みですが、こう読まないと次の「もちろん、誤認逮捕はない方がいいに決まっています。…」につながりません。たとえば起訴猶予は「やったけど許す」なので誤認でも何でもありませんし、告訴の取り下げは逮捕以降の話なのでこれまた誤認でも何でもない。以上から「誤認」=「嫌疑不十分」と解釈しました。
その上で、

高い不起訴率を支えているのは警察の「誤認逮捕」ではなく、主に検察によるお目こぼし、「起訴猶予」である

と書いたのです。いかがでしょうか。

結論部分

無罪の人が逮捕の48時間(+24時間)「以上の」期間、身柄拘束またはそれに類する状態にされる (無罪率が高い方が人権侵害の程度が大きい)ということさえわかれば、実際に何ヶ月拘束されるかはどうでもいいんです。そもそもこの点を批判の対象とすること自体(しかもその批判が条文に沿ったものではない)が的外れでしょう。

これはおっしゃるとおり、枝葉の議論です。ですが、身体拘束の状態が長いほうが人権侵害の程度が大きく、検察は早期に救っているのだというのが論旨なので、規則としてはそんなに拘束されないことになっている、ということを指摘するのは、あながち的外れとも言えないのではないでしょうか。

起訴便宜主義をやめるべきと言う考え方はありでしょう。しかし裁判所のリソースが足りないという現実を認識しており、そして有罪率を落とす=裁判所の負担が増えると言うこともわかっていながら、なぜ起訴便宜主義をやめるべきなのでしょうか。裁判所の負担が増えることは、即裁判が適当に処理される→今以上に裁判がひどくなることにつながるとは思いませんか?はたしてこれが「まともな司法」なのでしょうか?

裁判所の、というより司法のリソースは全般的に足りていないので、現状のまま起訴法定主義にせよと主張するつもりはありません。今いたずらに起訴率だけ上げたらご指摘のようにさらに悲惨な状況になりそうです。
とはいえ、現状がいい状態であるとはとても言えない。
現状の運用は、リソースが足りないので仕方なく行われているという前提で肯定されるべきであり、最終的には克服されるべき問題であるという認識でなければならないと思います。検察は検察であり、裁判所ではないのですから。
法曹の数を増やすというのは問題解決のための一歩になりそうだったのですが、法科大学院をめぐる近年の迷走ぶりを見ているとダメなのかな…という気もします。
ちょっと脇道にそれました。


というより、「99%有罪」ってそもそも検察批判ではなく裁判所批判ですよね?
「ほぼ確実に有罪になる人だけを起訴してたほうが結果的に無罪になる人を起訴するより人権侵害の程度が少ない&訴訟経済に資する」という元エントリの趣旨は正しくて、問題は「ほぼ確実に有罪になる人だけを起訴」する検察の姿勢ではなく、それが当たり前になった帰結として「検察が起訴したんだからほぼ確実に有罪」だとしている(ようにしか見えない)裁判所の姿勢ですよね。
人質司法」も、不当に人権侵害した状態で自白を含めて調書を何とか取りに行く検察だけの問題ではなく、むしろそんなものを安易に証拠採用してしまう裁判所の問題が大きいわけですし。

このあたりは裁判員制度でどう変わるか、注目です(が、たぶん情報が公開されないので注目できない…)。

文章から受ける印象にひきずられ、感情に任せて議論をするのはいかがかな、と思う次第です。

昔からよく言われます。ごめんなさい。気をつけます。

確定判決が出るまで拘束されたりしないって、普通

「有罪率99%」という言葉の意味 - 弁護士兼務取締役の独り言
を読んで。

拘束するには条件がある

そもそも、逮捕されてから起訴、公判、判決にいたるまで被疑者は拘束されているもの、と思い込んでいる人が少なくない。ローである元エントリさんはそんなこと先刻承知で…

起訴されると、今度は確定判決が出るまで勾留されるので、2ヶ月から数年間身柄を拘束されることになります。

えーーっ!

刑事訴訟法 60条1項

裁判所は、被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある場合で、左の各号の一にあたるときは、これを勾留することができる。
一  被告人が定まつた住居を有しないとき。
二  被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき。
三  被告人が逃亡し又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由があるとき。

つまり、そもそも帰るところがないとか、証拠隠滅しそうとか、帰したら逃げちゃいそうとか、帰しちゃまずい事情があるときでないと、拘束してはいけないという建前になっている。実際、身柄を拘束したまま公判している事件はそう多くない(2006年の身柄事件率は30.0%。平成19年版 犯罪白書のあらましより)というデータもある。

「2ヶ月から数年間身柄を拘束されることになります」についても。

刑事訴訟法 60条2項

勾留の期間は、公訴の提起があつた日から二箇月とする。特に継続の必要がある場合においては、具体的にその理由を附した決定で、一箇月ごとにこれを更新することができる。但し、第八十九条第一号*1、第三号*2、第四号*3又は第六号*4にあたる場合を除いては、更新は、一回に限るものとする。

原則2ヶ月以内に釈放しないといけない。
無期限に更新できるのは重大事件のとき、それも「特に継続の必要がある場合」のみ。そして、そもそも数年間も公判が続くなんてのが相当レアケース(テレビ見てるとよくあるように感じるが、あれはむしろ珍しいからテレビネタになってる、と考えるべき)。

というわけで、起訴されてもずーっと拘束されているわけではない(普通。拘束され続ける人も中にはいる。)ということが確認できたところで。

なぜ有罪率が99%なのか?

答えは簡単。検察官がほぼ確実に有罪になる被疑者しか起訴していないからです。

検察が「勝てる」ときしか起訴しないから、という意味であれば明確に間違い。そうでなければごめんなさい。

平成19年版 犯罪白書を基に作成。

a 検察庁終局処理人員 2076777 100.0%
b 公判請求 138029 6.6%
c 略式命令請求 660101 31.8%
d 起訴猶予 991401 47.7%
e その他の不起訴 92637 4.5%
f 家裁送致 194609 9.4%

不起訴率というのは上の表でいう (d + e) / a のことだが、この「起訴猶予」というのは、明らかに有罪だけど今回は目をつぶってやる、というものだ。たとえば「泥酔して公園で全裸で遊んでいたが、今は深く反省しているようだ。初犯だし、被害者もいない」ような場合に起訴猶予処分となることが考えられる。
そして「その他の不起訴」だが、証拠が揃わないなど、検察が勝てないかもと思って不起訴にする「嫌疑不十分」のほかに「親告罪の告訴取り下げ」「心神喪失」などがある。この内訳も上でリンクした犯罪白書にあるので、興味のある方は。
話を戻して、上の表を見れば分かるように、高い不起訴率を支えているのは警察の「誤認逮捕」ではなく、主に検察によるお目こぼし、「起訴猶予」である*5。が、いずれにせよ

無罪率が高ければ高いほど、その分無駄に取り扱う件数が増え、裁判所がパンクしてしまうし(今でも裁判官の数が足りないのに・・・)、身体の自由という重大な人権を侵害される人の数もその程度も増加してしまうということです。

これは言えると思う。何でもかんでも起訴したのでは現実問題リソースが足りない。裁判所に到達する前に検察というフィルタを挟むことによって、確かに無駄な裁判は減っているだろう。


ただ、それは正しくない、と私は考える。それでは検察が第0審となってしまう(そして「上級」審はろくに見ない)。裁判は公開でなければならない。取調べは不可視、不利な証拠は表に出さない、半ば自動的に延びる勾留期限(H.18、裁判官による勾留請求却下は0.4%)。←「これは最初の検察官の勾留請求の話であって、勾留の延長の話ではない。」とコメントにてご指摘いただきました。
「判決が確定するまで2ヶ月〜数年間身柄を拘束される」というのは上で示したとおり誤っているが、警察・検察が自白を強要したり、調書を無理やり取ったりするときに、このように被疑者を脅すという現実がある。
これがまともな司法であるとは、私にはとても思えない。起訴便宜主義はやめるべきで、有罪率をもっと落とせば、逮捕、起訴をもって被疑者を犯罪者視するという主権者の誤った認識が減るので、検察も安心して?きわどい案件も起訴できるので、司法が正常に機能するようになると思う。

*1:被告人が死刑又は無期若しくは短期一年以上の懲役若しくは禁錮に当たる罪を犯したものであるとき。

*2:被告人が常習として長期三年以上の懲役又は禁錮に当たる罪を犯したものであるとき。

*3:被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき。

*4:被告人の氏名又は住居が分からないとき。

*5:実際には「嫌疑不十分」とすべき事案を「起訴猶予」にしてしまったりする例もあるようなので、白書を信じるとすれば、だが。