民族として引き受ける責任なんて幻想だと言いたい

多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

これほど「逃げである」と言われてもなお「幻想だ」と私は言ってしまいたい。それは、民族というものは克服されなければならない概念であり、克服する上で、民族はアプリオリに存在しないということを指摘することには意味があると思うからだ。


民族というのは、それこそ民族によって定義も異なるのだが、だいたい、土地、言語、宗教、習慣といった共通性によって取り出されるひとまとまりの集団、と言うことができると思う。「共通性によって取り出される」というと、あたかもそれは最初から存在しているもののように感じられる。しかし実際には、数ある共通項の中から誰かがいくつかの要素を抜き出して隣との線を引く作業であることに他ならない。隣と共通していない要素を探して、「われわれ」と「かれら」とのあいだに線を引いた。そうしてできた集団が民族である。


とはいえ、線を引く作業はもうずいぶん前に行われてしまっている。だから、現在を生きる私たちにとって、民族は最初から存在している。民族に自らのアイデンティティを見出す人も存在する。それを「いやそれ幻想」と頭ごなしに否定することはできない。


その上で。
「私」が「民族」に所属すると想像するのは自由である。そして、「民族」のために「私」が動くこともまた、基本的には許されなければならない。しかし、それは往々にして暴走する。民族は、注意していないと、ひとりで動き始める。ここで思い出す必要がある。民族は共同幻想である、ということを。想像上の概念である民族が動き出すはずがない。誰かが動かしているのである。陰謀論ではない。民族を突き動かす誰か。それは他ならぬ「私」だ。


現在において民族は自明である、ということの弊害はもうひとつある。それは、民族からの自由がない、ということだ。言い換えれば、私は生まれたときから和人であり、これはもう変更できない、ということなのだ。和人であるだけで発生する「責任」など引き受けたくない。選んで和人になったわけではない。選んで特権的な地位を持ったわけではない。天皇だって選んであの家に生まれたわけではないだろうに。属性に責任なんてない。やっていないことに対する責任なんてない。そうでないとおかしい。


だから、日本において少数派が配慮されることがとても少ないことに対する私の責任は、法的・政治的な意味であれば有権者(主権者)としての責任であり、言論とかであれば表現者としての私の責任である。決して和人としてアプリオリに与えられた責任ではない。そうでないとおかしい。