死刑廃止論者である私のメモ

「残虐な刑罰」

死刑が憲法36条のいう「残虐な刑罰」にあたるのかについては、1948年に最高裁判決が出ている。
全文
戦後間もないので、最高裁をしてまだこんなもんだったのだろう。まあ、最高裁判決を引くまでもなく、

憲法31条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

これを素直に読めば、憲法が死刑を想定していることは自明であるといえる。死刑が違憲であるというのは、いささか無理筋。


ただ、補足意見に注目すべき部分があったので引用する。

ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によつて定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第三十一条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。しかし、今日はまだこのような時期に達したものとはいうことができない。

60年経ちましたが、まだダメなようで…。

抑止力

ない。
ないどころか、逆に死刑が凶悪犯罪を誘発している面もある。最近だと茨城県荒川沖駅で起きた無差別殺人事件における金川被告人とか。彼は「(死刑がなければ)やらなかったでしょうね」と明確に言っている。

国際的な動向

アムネスティ
でも、基本的には関係ない。他国がどうしようと、正しいのなら続けるべき。正しいのなら。他国が軍隊を持っているからといって「普通の国」にならなければいけないわけじゃないのと同じ。
犯罪者引渡し条約については、日本がアメリカと韓国の2か国としか締結していないのは死刑があるからという指摘があるが、本当にそうなのか、それだけなのかは知らない。カナダは死刑存置国に犯罪者を引き渡さないと公式に発表しているらしいが。

刑罰権

復讐権の代行

個人の復讐権を国が代行することで復讐の連鎖を防ぐという考え方。

応報刑

復讐権とかぶる部分もあるが、やったことに対して同じだけの苦痛を与える、というもの。

一般予防

簡単に言えば「みせしめ」。こういうことをするとこういう刑罰が科されるよ、と示すことで犯罪を抑止しようとするもの。

特別予防

犯罪者に対しては教育をすることで再犯を防ごうというもの。


死刑は応報刑である。死刑に抑止力はないし、死刑囚は再犯できないので、「一般予防」「特別予防」は死刑とは相容れない。一方、その他の刑罰は基本的にこれら目的刑なので、死刑って基本的に異端。
復讐権の代行も違う。日本の刑罰制度では、被害者の復讐心は考慮されない。被害者の家族の復讐心は考慮されるようになったようだが(被害者参加制度。いわゆる死刑事案では通常、被害者本人は亡くなっている)。
日本の刑罰制度は、復讐権を否定する。つまり人に対して「どんなことがあっても人を殺してはいけない」と説く(正当防衛を除く)。それならば、それは、それを破った人に対しても適用されなければいけない。「どんなことがあっても人を殺してはいけない」に例外を作ってはいけない。そうしてはじめて、「人を殺してはいけない」に説得力が生まれるのではないか。

冤罪

冤罪は起こる。必ず。
それは見落としかもしれないし、怠慢かもしれないし、握り潰しかもしれないし、でっち上げかもしれない。冤罪を防ぐよう最大限努力すべきなのは言うまでもないが、それでも冤罪は起こる。もしあなたが、最大限努力すれば冤罪は100%防げると考えるとしたら、まさにそれが冤罪の温床なのである。


かくして冤罪は必ず起こるので、問題は冤罪が起きたときにどうリカバリするかに移る。
懲役刑だって失われた時間は返ってこないし、現行法ではいくらかのお金が支払われるだけだ(最大で12500円×日数)。でも身体は帰ってくるし、生きて名誉も回復する。次の冤罪を防ぐために証言することもできる。


殺してしまったら、もう永遠に取り戻せない。