一人殺して「最高刑」となる例

これで最高刑が下されないとなると、どうすりゃいいんだろうね。

最高刑の妥当性 - (旧姓)タケルンバ卿日記避難所

産経の記事にある「「1人で死刑」の3判例」の1つであろう、いわゆる奈良女児殺害事件。以下の引用は「ドキュメント死刑囚」より。途中<略>は私。

学校から帰宅途中の小学生の女児が連れ去られ、その夜、母親に女児の携帯電話から「娘はもらった」という犯行メールが届いた。女児は殺害され、翌日未明、道路の側溝に遺棄されているのが発見された。当時あまりに凄惨だとして詳しく報道されなかったが、遺体は激しく損壊されていた。
<略>再度犯人からメールが届いた。今度は「次は妹だ」という文面と、殺害された女児およびその妹の画像だった。

ドキュメント死刑囚 (ちくま新書)

ドキュメント死刑囚 (ちくま新書)

一審で死刑、控訴取り下げにより確定。この間、再審請求を出したというニュースを見たような気がする。


最高刑の存在意義を問い直すのは結構だが、しかし、大抵の条文には最低刑も設定されている。引用されているように、刑法199条、殺人罪の最高刑は死刑だが、最低刑は懲役5年だ。少し前までは3年以上だったが、引き上げられた。今回の事件の報道を見ると、もう最初から「死刑か無期か」、もっと言えば、「被害者1人で死刑が出る先例」のひとつになるか、という点がもっぱらの関心であった。
それはさておき、量刑について、システマチックな「基準」は存在しない。1つ1つの事件にまつわる個々の事情を数値化してパラメータとして与えてやると、自動的に量刑が決まったりするようなソフトは存在しない。おそらく。
そこで量刑は裁判官自身の「良心に従ひ」決められるのだが、そのとき参考になるのが過去の判例だ。それも上級審の出した判決は多くの裁判官が参考にする。以下は1983年に最高裁で出された死刑判決の基準、一般に「永山基準」と呼ばれているものである。

1. 犯罪の性質
2. 犯行の動機
3. 犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4. 結果の重大性、特に殺害された被害者の数
5. 遺族の被害感情
6. 社会的影響
7. 犯人の年齢
8. 前科
9. 犯行後の情状

永山則夫連続射殺事件 - Wikipedia

大切なことだが、これは最高裁が「これから死刑相当事案はこれを基準として判決を出すように」というように発表したものではない。個々の裁判官はこの基準に従う必要がないし、最高裁も個々の裁判官に対してこれを強制しない、というか強制してはいけない。これが憲法のいう「裁判官の独立」(76条)である。蛇足ではあるがこれは裁判員にも保障されている(8条「裁判員は、独立してその職権を行う。」)。だから

検討された結果、この事件までは最高刑は適用されないという「基準」ができてしまった。「ひとりならセーフ」という基準ができてしまった。

これは明確に間違い。基準はできていない。この裁判官はこういう結論を出しました、というひとつの先例に過ぎない。

俺はどうもわかりませんよ。最高刑を適用するかどうかの妥当性という観点はどこへ行ったのか。疑問であります。

「最高刑を適用するかどうかの妥当性」は裁判官ひとりひとりが、そして5月からは裁判員ひとりひとりが、考える。僕たちも、(たいていは報道というフィルター越しに、ではあるが)たまには考えよう。