法律は誰が運用者になってもいいように作らないといけない

昨日のエントリについたid:hagakurekakugoさんのコメント(以下の引用はすべてそれ)に対して。

>どういう嗜好であっても(それがどんなに犯罪的な嗜好であっても)、嗜好であるうちは自由である。
有償・無償に関わらず児童ポルノを手に入れた瞬間から加害者です。
嗜好者であっても加害者にならなければ良いだけの話です。

今現在は少なくとも加害者ではない(=刑事責任を問われない)、というのは事実です。「今回の法改正により加害者になることが見込まれます」を「加害者です」と言い切られると話がしづらいです。

如何にもアングラなDVD店などで購入した場合は法的にアウトの可能性が考えられます。

「如何にもアングラ」であるかどうかは誰が決めるのでしょうか。

ツタヤとかのエロビデオコーナーが無難でしょう。

「ツタヤとかのエロビデオコーナーが無難」であるかどうかは誰が決めるのでしょうか。

狙いは暴力団の資金源にもなるような「如何にもな」画像・動画です。

「「如何にもな」画像・動画」とはどんな画像・動画でしょうか。
本物の児童か本物っぽい児童かを厳密に区別することは購入者には困難ですし、何より、その判断を購入者にさせるのがナンセンスです。それは売り手に課すべきで、ゆえに購入者は、売られていることをもって安全であるというお墨付きを得て安心して購入できる、というシステムのほうが自然です。

むやみやたらに表現物を摘発するとは考えにくいし、99.9%には全く影響ないでしょう。
中学生の水着DVDとかは際どいでしょうけど(笑)

繰り返しますが、何が「際どい」かは誰が決めるのでしょうか。

「むやみやたらに表現物を摘発するとは考えにくい」とか、そういう運用に期待するようなやり方はいけないのです。それが罪刑法定主義の意義です。国家権力は未来永劫あなたの味方であるとは限りません。30万人近くいる警察官の全員が恣意的な運用をしない保証はどこにもありません。そのとき、僕らを守ってくれるのが刑事法なのです。刑事法は「悪い奴をとっちめるためのカタログ」ではなく、僕らが「この枠内なら好きなようにしていい*1」という線、言い換えれば「この枠内から出ない限りどんな権力も手を出せない」という線を表したものです。ですから、枠線は明確に、誰にも分かるように引かないといけません。
前回のエントリのタイトルに「「なりうる」だけで「捕まりうる」社会はとっても怖い」と書いたのはそういうことです。

*1:民事で訴えられる可能性はあるし、社会的な(世間的な)制裁を受ける可能性はあるが