「和人」だか何だか知らないが

私は生まれてからずっと関東に住んできたこともあり、また自身の出不精のせいもあり、本とかウェブとかでない実体験としては、アイヌ差別も部落差別も「見聞きしたことがない」。それは幸いなことなのか、それとも残念なことなのかは分からないが、しかしそれにしてもウェブは素晴らしい。差別は遠い過去のものでもないしどこか遠い場所のものでもないことを、こうして、剥き出しの形で、しかもリアルタイムで見ることができる。

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090112/1231783080
大いに考えさせられるエントリ。「見たことないので、ないと思う」人は、コメント欄を見るといいと思う。


しかし、「杉村京子さんの言葉」のくだりで、止まった。「純血アイヌ」だそうである。もうそこで立ち止まってしまう。
おそらく日本で一番しっかり「純血」を管理されているはずの明仁さん(1989年から天皇を務めている人)は百済系だそうで。いったい「純血」とは、いったい何代ぐらい遡れればそう認定されるのだろうか。いったい「民族」とは、いったい何年ぐらい前に分かれたものならそう定義できるのだろうか。


民族など存在しない。ヒトはヒトなのである。


差別してはいけないというのは、あくまでそれがベースなのだと思っている。このベースを崩すと、つまり民族単位での差異を認めると、その隙間は何かが入り込む余地となってしまう。民族だろうが文化だろうが、誰かが捨てさせるのならそれは言語道断だが、自由意志のもとで選んで捨てているなら、それはどうしようもない。もちろん、現在のアイヌの状況が自由意志によるものだと言いたいのではない。しかし、強引にアイヌ文化を残させることもできない以上、アイヌが生活の実体として残るかどうかは、アイヌしだいであると言わざるを得ない。(歴史としては全力で残すべき。それを蹂躙してきた歴史も含めて。)


表題に書いた「和人」の意味が、分からない。日本国籍を持つ人の意味ではないようだ。もう少し狭めて、国籍法2条により日本国籍を持つ人の意味だろうか。いや違うだろう。では、「和人」とは何か。まったく分からない。しかし分からないなりに思う。おそらくこの「和人」という未定義の存在、そして、北海道や沖縄出身でない多くの人が無節操に「ボクは和人」などと自らを定義づけていることこそが、反転して周辺を差別する構造を産んでいるのだろう。

蛇足

コメント欄

まあそもそも日本に法的に定義された公用語はないのですけれども。

公用語とする、みたいな定義ではありませんが例えば裁判所法74条。

裁判所では、日本語を用いる。

何を日本語とするかは定義されていないのですが。