固有名詞の読みがなについての私の現状

「よみにくい」というまえに。 - hituziのブログじゃがー
こちらの記事を読み、現在思っていることをそのまま書いてみたい。

 漢字かなまじり文によって、日本社会で生活しているひとびとを「支配」することはできる。しかし、漢字かなまじり文による平等や民主主義というものは、実現できそうにない。なぜなら、「日本語が第一言語、めがみえる、みみがきこえる、こどものころから字をならった、学習障害や知的障害がない、などといった条件がそろわないかぎり、漢字弱者は構造的につくられる」からである(あべ2004b:54[漢字という権威])。それでもなお「多数の同意にもとづいて」漢字かなまじり文を維持するのならば、どのようにして平等で民主的な文字社会をきづいていくのかを、その「多数」が検討しなくてはならない。

これに対して、どういう方法を採ってもそれは結局万能といえるものではないという反論は、おそらく成り立たない。「万能ではない」と「万能でなくてもよい」はイコールではない。「漢字」による支配・被支配の構造がある、という現状の認識があり、それに対してどう向き合っていくか、という課題を被支配者側にのみ押し付けることでは何も解決せず、支配者としての私がまず支配者としての自己を認識することから、問題は解決に向けてようやく動き出すのだと思う。


その上で。

北谷淳(きただに・あつし)と かくことが、それほど むずかしいことですか。

「よみにくい」というまえに。 - hituziのブログじゃがー

少なくとも私にとって、固有名詞の読みをどう書くかは、簡単ではない。


以前、
読者アンケート。 - hituziのブログじゃがー
この記事に対して

私にとってはこちらのほうが読みやすいです。

以下、この記事と直接関係ありませんが、以前から気になっていたので、この場をお借りして質問いたします。
固有名詞に読みがなを添える…ような話があったかと思いますが、漢字圏の外国の固有名詞はどうするのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20081023/1224768103#c1224777661

とコメントしたら、

ありがとうございます。

北京(ペイジン)、盧武鉉ノ・ムヒョン)…というように表記すれば よいかと おもいます。天安門を いつまでも「てんあんもん」と よびつづけていると、非漢字圏における表記を みても ぱっとわからない、あるいは会話が通じないという問題が 解決しません。漢字と よみの両方を 表記すれば、より たくさんのひとに わかりやすくなるとかんがえています。

http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20081023/1224768103#c1224778361

というお返事を頂いた。以下はそれに対する私の現時点での考えである。


小沢一郎(おざわ・いちろう)。まあ普通、かなを振る必要はないだろう、と思う。それは、日本の参議院で最も多い議席数を持つ政党の党首だから、ということではない。他の読みがほとんど考えられないからでもない。いや正確にいうと、それもある。
小沢一郎にかなを振る必要がないと私が考えるのは、普通、(民主党党首の)小沢一郎という名前が出てくるのは、政治関係の文章だからである。つまり、「それを読む人は」読めるだろうことが推測できる。そして、ここが重要なのだが、当人を知らないし興味もない人にとって、名前なんてただの記号に過ぎないのである。
私は事件報道を見ていても、逮捕された人の名前は、知り合いか、あるいはよほど大きな事件でもない限り、遅くとも翌日には忘れる。話の中身が重要なのであり、固有名詞はどうでもいいのだ。

姜尚中(かん・さんじゅん、강상중*1)はどうか。知らないと読めない。私も調べた記憶がある。ただ、現代のウェブ時代はこの「調べる」コストをずいぶん下げてくれた。読みの分からない固有名詞の上をマウスで選択状態にして、右クリックしてコンテキストメニューを出し、「googleで検索」を選択すればもう解決(Firefoxの場合。それより前の前提として、もちろん、これはウェブ上にある読めない固有名詞の場合。)。ちなみに私の友人は彼をキョウさんと呼んでいて、最初は指摘していたのだが、だんだん、話し相手である私に通じるのだからそれでもいいかと思いなおし、最近は脳内で変換することにしている。つまり、読みが気にならない人にとって、読みはどうでもいい。
話を戻して、「かん・さんじゅん」では非ひらがな圏の人に通じないし、「강상중」と書かれても非ハングル圏の人に通じない。ところが「姜尚中」と書けば漢字圏では誰のことだか一発で分かる。彼に興味があり、かつ「姜尚中」の読みに興味がある人だけ、調べればいいと思う。

胡錦濤(こ・きんとう、ホゥー・ジンタオ*2)の場合はどうか。NHKは「こきんとう」と呼んでいる。NHKを擁護するわけではないが、「ホゥージンタオ国家主席は」というより「こきんとう国家主席は」と言ったほうが日本語圏では通じやすいような気もする。
地名ではどうか。平壌(ぴょんやん)をあえて「へいじょう」と読めば、ただの誤読である場合もあろうが、ある政治的な意味合いで敢えてそう読む場合もあるだろう。沖縄を「おきなわ」と読むか「うちなー」と読むかも同様に、一筋縄ではない。
これらに対して、その固有名詞を使用する人が、いちいちその政治的な立場を言明する必要もないので、漢字を漢字のまま表記するというのも、ひとつの選択肢として認められてもいいのではないか、と思う。

まとめると、

  • 固有名詞の読みはそれほど重要ではないので、読みは気になった人が調べればいいのではないか。ちょっと調べたぐらいでは分からないような人のときは読みを併記するのが優しい態度である(それは識字とか以前の問題である)。
  • 固有名詞の読みが(主に政治的に)ひとつではない場合、読みを添えることはその立場の表明につながる。特にそういうことが目的の文章でないとき、立場を表明しないというのもひとつの選択肢である。読みを提示されないことで、読み手は好きに読む(または読まない)ことができ、それを読み手の権利として委ねることは、そんなにわるいことではないと私は思う。


支配者であることにあまりに無自覚なのかもしれないな、とも思いましたが、現状の自己認識をそのままさらすことにしました。将来、この記事を恥じて消したくなる日が来るかもしれないし、そうはならないかもしれない。私はこの問題をこれからも継続的に考えていきたいし、またそうしなくてはならないと思う。

*1:お使いのブラウザで表示されない場合はwikipedia:姜尚中を参照ください

*2:読みはwikipedia:胡錦濤による。