機会のみの平等なんてあり得ない

世間様のいう「貧困層」なのかは知らないが、私は、私の所得が低いのはおおむね私の責任だと考えている。振り返れば分岐点はいくつもあって、私はことごとく誤ってきたと思う。あるときは自覚的に、またあるときは無自覚に。


天にまします我らの結果平等よ、あるいは地を這うAとB(追記アリ
ルールから零れ落ちるもの、あるいは配慮
とその周辺のhokushuさんのエントリを読んで、ごはんを食べながらそんなことを考えていた。


しかし、目の前にいる私の子を見ながら、それ(私の「自己責任」)は彼には何の関係もないことなのではないか、と思った。そこで機会の平等と結果の平等について、ちょっと考えてみることにした。なお、「生まれる家を間違えたのだから自己責任」なる珍妙な主張を公然とする者もいたりするが、無視する。


まずはhokushuさんの結果の平等。

ちなみにぼくは機会平等だけじゃぜんぜんだめで、結果平等じゃなきゃいけないと思ってます。左翼なので。

機会が平等でも結果として収入に100倍くらい差がでるのは全然だめ。

平等について - 過ぎ去ろうとしない過去

とあるように、hokushuさんも、そしておそらくほとんどの「結果平等を主張する者」も、完全にフラットな結果の平等を主張しているわけではない。そういう意味で、コメント欄にあるような「努力した人が報われる世界は悪ですか?」というような疑義は全く意味を成さない。結果の平等「を志向すること」を主張しているのである。

続いてtikani_nemuru_Mさんの機会の平等。

  • 機会の平等には、「降りる」自由がある【機会の平等A】と、強制参加の【機会の平等B】がある
  • 実質的に降りる自由があるってのは、降りても食うには困らないし、「降りるのやめた(=ゲームへの再参加)」もできるということだにゃ。

    機会の平等には「降りても食うには困らない」程度の「結果の平等」も含む。「降りる自由」は「乗る自由」も内包していて、当然「乗る」ための前提となる「結果の平等」も伴う。つまり「完ペキな」機会の平等を志向すれば、自ずと結果の平等にも目を向けることになる、ということである。


    ここで最初に戻る。
    例えば、私の子が「将来、医者になりたい」と言ったとする。
    私は現状「ごめん。協力はできない」と言うしかない。
    このとき、私の子にとっての機会の平等をとは、私にとっての結果の平等でもある。
    世代間を断絶させた「1人」を基準として考えると、「機会の平等」がまっとうに確保されれば「結果の平等」は不要である(そのことによって降りる自由を確保する)と見ることもできるが、世代間を連続させて考えると、機会の平等と結果の平等は連続しているのであり、そもそも機会と結果とを分けることに意味がないのではないか。極言すれば、平等を論じるときに機会と結果とを分ける必要性は、「結果」を無視したいとき以外にはないのではないか。