日本人

「日本人3人がノーベル賞受賞」という言説

全文に渡ってまったくその通りだと思う。

 日本人のノーベル賞受賞は02年以来で13、14、15人目。物理学賞は同年の小柴昌俊・東京大特別栄誉教授に続き、5、6、7人目。

http://www.asahi.com/science/update/1007/TKY200810070297.html

そんなものをいちいち数えあげることに「クイズ的な知識」以上の意味は何もない。


昨日(10/7)のNHK『ニュースウォッチ9』で小林誠さんと益川敏英さんにインタビューしていて、見ていた私はその内容よりも、キャスターの田口五朗さんの「どうしても受賞者の喜びの声を皆様に伝えたい」必死な姿ばかりが印象に残った。
今日(10/8)の同番組のトップは、てっきり東京市場の暴落のニュースかと思って見たら、受賞者の周辺の人の喜びの声を拾っていた。呆れた。


そんなにノーベル賞がすごいのなら、他の賞を受賞した他の人も紹介し、賞賛すべきだが、それはしない。あくまで「日本人」だからすごいのであり、他はどうでもよろしい。こうした態度のどこが中立公平で不偏不党なのか。
けれども

マスコミはそんなに深く考えていない気がします

http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20081007/1223385373#c1223465249

というコメントはおそらく的を射ている。そして問題はまさにそこなのである。明確にエスノセントリズムを標榜し、そこに立脚していわば確信犯的に自民族の誇りみたいなものを鼓舞するのならまだよい。真に問題とすべきなのは、「われわれ」は同質のアイデンティティを持つ日本人である、ということを無意識の前提として持っているようなものである。
今回の「日本人3人受賞」について感じた私の「違和感」は、受賞した3人が日本人であるかどうかの違和感ではなく、「日本人」という言葉を躊躇なく使っている報道の人、そしてそれに違和感を覚えない「日本人」に対しての違和感なのである。


同じような違和感は、「国民」という言葉に対しても感じる。以下、記事を2本紹介する。なお、ここでは「国民」という単語の使われ方のみを問題とし、中身には触れない。

民主党の石井一副代表は5日のテレビ朝日の番組で、総選挙後に公明党と連立を組む可能性について「一切ない。これ、ばい菌みたいなもんですよ。小沢(代表)と私は、強いそういう(思いだ)。公明党から4票もらったら、浮動票が6票逃げていく。国民はそんなバカじゃない」と否定した。

http://www.asahi.com/politics/update/1006/TKY200810050197.html

「国民」=「有権者」という意味で使っているのだろう。有権者でない国民もいるが、これは前後の文脈を考えればさほど問題ないと思う。

 二階経産相は9月、電力各社に対して「現在の経済状況や国民生活に与える影響を十分に踏まえた対応を取るのは当然だ」と引き上げの再考を促すとともに、燃料費調整制度を見直す考えを示していた。

http://www.asahi.com/politics/update/1003/TKY200810030273.html

「国民」=「日本国内で生活している人」という意味であろうか。これは問題がある。日本国内で生活していれば、日本人でなくとも電気料金の改定の影響を受ける。「国民の税金」云々というフレーズもよく聞かれるが、これも同様である。


民族としての日本人?

ここでの日本人とは国籍としての日本人ではなく、民族としての日本人である、という主張を散見するが、私は「日本人」というのは「日本国籍の人」以外の意味を持っていないと考える。第一、民族などというものはないと考えている。よって、まったく理解できない。
というわけで集合知に期待。
「民族としての日本人」って、何?