「日本的」問題

落書き「問題」(落書きぐらいで必死に「死ねばいいのに!」って連呼するメディアサークルとそれを取り巻くはてなサークルとか)を見ていて、何か釈然としないものを感じていて、それが何かが分からずに悶々としていたが、野蛮で残酷な日本的茶番 - planet カラダンを読んで、なんとなくその釈然としないものの正体が分かった気がした。

日本人に、日本人的という意味での連帯意識があるとすれば、

これだ!
すべての「日本的」問題の本質はこれだ。
日本人の中に通底する「日本的ななにか」がある。大和魂とか、日本的価値観とか、日本文化とか。そういうありもしない空想を、相当の割合の日本人が共有しているという問題。あるいは、相当の割合の日本人が、そういう空想を共有していると思っている問題。
だからこそ、どこかで何かをちょっと踏み外した人に対して、過剰なまでの社会的制裁を与えても何とも思わないし、ましてやそれに異を唱えることは許されないのである。「みんな」の側は常に正しいから。「みんな」の正しさに疑問なんていらないから。


「これはまさに日本的だね」などという簡便なところに問題を押し込めない。国籍による考え方の差異などない。考える主体は常に自分、何にも属していない自分。
そうしてこの空想「日本」を解体しない限り、「日本的」問題は終わらない。

そもそも日本人の道徳って何なの?

と疑問をもつことから始めたい。