いえ、ドキュメンタリーはフィクションです

「ドキュメンタリー=フィクション」論は危なくないか? - HALTANの日記を読んで(そこからちょっと遡って)。


タイトルは「ドキュメンタリー≠ノンフィクションである」という意味において、です。
想田和弘さんは


現実を素材にしながらも、そこに作り手の作為と世界観が入り込むことから、ドキュメンタリー作品は虚と実の間を振り子のごとく微妙に揺れ動く。ドキュメンタリーの在処が、単なる「虚」でも「実」でもなく、「虚と実の間」であることがミソである。その危ういバランスがいかにも怪しく、人を惹き付ける。そのことを忘れ、「虚」か「実」のどちらか一方に振り子が振り切ってしまった瞬間に、ドキュメンタリーは根本から崩壊しかねない。それに極めて自覚的になりながら、僕はドキュメンタリーを撮り続けていきたいと思う。
ドキュメンタリーは「虚と実の間」であるとしている。
対して森達也さんは

表現とは、そもそもが嘘の要素が混在する領域なのだ。
 だから僕のメディア・リテラシーの定義は、「メディアは前提としてフィクションであるということ」と「メディアは多面的な世界や現象への一つの視点に過ぎない」という二つを知ること。
視点をずらす思考術 (講談社現代新書 1930) p.42

でもドキュメンタリーは逆で、主観を最大限に表出するジャンルなんです。
(中略)
公益性、公共性を謳うのではなく、自らの世界観です。あくまでも主語は複数ではなく一人称単数。個的な思いや主観を表出するのが、僕の定義するドキュメンタリーなんです。
ご臨終メディア ―質問しないマスコミと一人で考えない日本人 (集英社新書) p.33〜34

実でないものはすべて虚なんだ、と言っている。
これは「(ノン)フィクションとは何か」に対するスタンスの違いに過ぎない。


そこで報道についてだが、森さんはこうも言っている。

報道は客観性や中立性を、達成できないことは自覚しつつ、標榜するジャンルだと僕は思っています。

上述の「でもドキュメンタリーは逆で…」の前の部分。


報道もそれが表現である限り主観に過ぎないのだが、いや逆に主観に過ぎないからこそ、常に中立点を模索しなければいけないのである。
同時に、私たち見る側も、報道されている内容は事実そのものではなく、事実をある視点で見たものなのだ、ということを自覚しなければいけない。


今日の報道はまったく中立指向でない。左右どちら寄りということはなく、強いて言えば「視聴者」寄り過ぎるのである。だから社会保障を拡充せよと言った次のニュースで道路を造るな、と言うのである。四川省地震があったらもうミャンマーのことは忘れるのである。
それは問題ではあるし、中立であるべきではあるのだが、一方で私企業が客である視聴者に擦り寄ろうとするのはごく当然なことであり、責めることはできない。ましてや上から規制などしてはならない。


だからこそ、別視点の提示というものは重要であり、そこに「事実を見る、マスメディア視点でない一つの視点」を提示するドキュメンタリーの意義があるのではないか。
そして繰り返すが、私たち見る側も、ドキュメンタリーで提示されたものも事実そのものではなく、事実をある視点で見たものなのだ、ということをやはり自覚しなければいけない。