あの日、最高裁はなんで自判しなかったんだろう

いまさらですが、なにぶん昨日ブログ始めたばかりなので。
「光市母子殺害事件」最高裁判決(2006/06/20)は、量刑不当による上告が上告理由に当たらないと言った上で「所論にかんがみ」事実認定している。で、出した結論が

以上の諸点を総合すると,被告人の罪責は誠に重大であって,特に酌量すべき事情がない限り,死刑の選択をするほかないものといわざるを得ない。

第1審判決が酌量すべき事情として述べるところは,これを個々的にみても,また,これらを総合してみても,いまだ被告人につき死刑を選択しない事由として十分な理由に当たると認めることはできない

と、(下方向に)量刑不当だよ、と言っている。
原判決が無期懲役であり、それが不当だと言っているのだから、もうあとは最高裁自身が言っているように死刑しかない。
であるにもかかわらず、差し戻してしまった。


# 裁判をするのは責任重大で気が重いからですよね > 最高裁さま


となれば差し戻し審で主張が変わったのも、当たり前といえば当たり前である。
真摯に反省の態度を見せてもダメ。
育ってきた環境を理由にしてもダメ。
計画性がなくてもダメ。
…。
ならば事実認定で争うしかないじゃない。それが正しいかどうかはともかくとして。

この事件は死刑について、もっと言えば刑罰というものについて考えさせてくれた。本村洋さんの死刑論には説得力がある。死刑存置側の意見として、これ以上に優れた演説を私は知らない。今日、一瞬揺らぎそうになった。
でも私は、是認できない。
理由は一つ。自分の命を預けられるほど、私は国家を信頼していない。


最後に、ジャーナリストの綿井健陽さんがこんなことを書いているのでコピペ。

あまりこういった言い方はしたくないが、だが私もこれまで一年間この事件の裁判の取材をしてきた者として、何らかのリスクは背負わなければならない。

もし被害者遺族の男性の言うように、弁護側の主張が「荒唐無稽」であると裁判所が同じように認定した場合、なおかつ検察側の最終弁論で述べられている「当審における審理の結果によっても、被告人につき死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情は、これを一切見出すことができない」と裁判所が同じように判断した場合は、私はこれまでの取材などで書いたこと、発表してきたことなどの責任を取って、すべてのジャーナリスト活動から身を引くことにした。

僕もそれぐらいのことを背負う覚悟はある。

なんだかすごく気になってきた。安田さんたち上告したらしいから、書くチャンスは少なくとももう1回ありそうだ。勉強しよう。