それは本当にフリーチベットなのだろうか



ナショナリズムの克服(姜尚中森巣博 集英社新書 2002)

森巣 いや、ここで、特に姜さんに申し上げたいのは、民族は一般概念としては成立しえないのだが、例外もまた存在するという点なんです。それは、非対称的権力の構図の中で、民族というスティグマを付けられ、西欧近代的な「進歩」の時間軸から取り残された者とされ、一方的に抑圧され収奪された(そして現在もされつづけている)<中略>人々は、当然のように民族概念を正のベクトルを持つ力として立ち上げうるし、また、立ち上げるべきだと私は考えます。

はじめて読んだときから何か引っ掛かっていた。
チベット周辺の話を見ていて、ふとこのくだりを思い出し、ようやくその引っ掛かりが何か分かった。


マイノリティが概念として持ち出せる「民族」概念はあくまで被支配者層の「少数民族」概念なのであり、ひとたび支配者側に転じたらもう禁じ手のはずである。しかし「民族」統合の象徴として使われてきたこの方便を捨てるということは、束ねる方法を他に考えなければならないことを意味する。現実、そう簡単には捨てない。捨てられない。その証拠に、そろそろ一線を退くはずであった民族概念は、いまだに利用され続けている。日本を含めて。


仮にチベットに「高度な自治権」が付与されたとして、それは本当に、世界の人権派の方々が口にしているときに想像しているであろう(と、私の想定する)フリーチベットなのだろうか。


フリーなチベットで、チベット自治区の住民(そこに住むのは「チベット人」だけではない)による自治が行われる保証はどこにもない。


話はそんなに単純じゃないのではないか。