ニュースに期待すること、自分で考えること

昨日書いたエントリに対して、ネタ元であるid:KoshianXさんから、はてなブックマークでコメントを頂いた。ありがとうございます。

んー、ブログならそれでいいんだけど、一次情報に直接触れられる立場なんだからもうちょっと情報出してよ、関連記事とかも持ってるでしょ、って思うんだよなあ

はてなブックマーク - KoshianXのブックマーク / 2008年10月17日

結論から言うと、私はそれ、全然違うと思う。
「一次情報」を持っているのは何も報道関係者に限らない。周辺に住んでいる人ならもっと詳しい状況を知っているかもしれないし、行政による土地収用全般に拡げて考えれば、情報を持っている人はもっとたくさんいる。あくまで、報道関係者は一次情報に直接触れられる「可能性が高い」だけに過ぎない。でも本当はこれはどうでもいい。
重要なのは、それら一次情報を持っている立場の人は、いや二次だろうとn次だろうと、おおよそソースを持っている人はすべて、その情報を出してもいいし、出さなくてもいい。この原則はブロガーにも、そして報道関係者にも当然適用される。

報道は中立でなければならない。一個人の勝手な主張とはレベルが違う。そう思われるかもしれない。
しかし、あなたが補足すべきと言った「情報」とは何か。どんな「関連記事」を書き加えるべきか。その取捨選択が、すでに中立から逸脱している。

このような記事への反応を見ていると、どうしても保育園が悪いとか大阪府が悪いとかそういった善悪論になりがちなのが気になった。

ニュースから読み取らなければならないもの - 狐の王国

今日のエントリ。私も気になった。
産経の記事がお涙頂戴だったから、それだと感情論になっちゃうから、行政寄りの情報も出して「中立」にものを考えられるようにしようね、とあなたは思って、そして書いたのかもしれない。
だが、いったいそれで「中立」になったのか。
被写体の子どものように、おそらくはただ純粋に芋掘りを楽しみにしているだけの人の思いに寄り添い、かわいそう、というのも一面。都市整備の計画に基き、法律に則って粛々と工事を進めていく行政の立場を理解するのも一面。だが物事はその2面だけではない。早く道路とおしてこの渋滞を解消してよという、とある周辺住民の一面もあれば、道路が完成したらウチの前の交通量が増えてうるさくなるなという、別の周辺住民の一面もある。あるいは全然恩恵も被害も受けない場所に住んでいて、オレの税金をそんなところに垂れ流してという別の一面もあるかもしれない。そもそも、こんな記事を紹介している暇があったら今我々が直面しているナントカ問題について書いてほしい、と思っている人もいるかもしれない。いやもっと…


あまりにも多様な現実から、何が必要な「情報」で「関連記事」なのか、それを選ぶのはあくまで「伝えたい」人の恣意的な行為なのだ。
ゆえに、ニュースに十全な情報を期待するのは危険である。

読み取る「自分」が大事

本当に重要なのは似たような事例が自分の身に降り掛かったときどうすればいいのかということである。

どこまでを「自分の身に降り掛か」る可能性のある事例として感じられるのか、ということだと思う。
だから、イラク派兵だろうが禁煙条例だろうが大阪府知事だろうが児童ポルノだろうが、巡り巡って自分の身に降りかかる可能性があれば、何でも噛み付く。
そして、これらは自分の身に降りかかってからでは往々にして遅い。降りかかってからでは

行政は適切に補償を積んでくれるのか。立ち退き期間は充分に取ってもらえるのか。言い方は悪いが行政側を焦らす限界点はどこにあるのか。サツマイモ収穫などのスケジュール的な事情を行政は汲んでくれるのか。

こういう対応しか取れない。だから、自分の身に降りかかる前に何とかこうした流れを食い止めるべく、「娯楽として」ではなく「歴史として」学んでいるのである。